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幸福について 人生論 ショーペンハウアー著 を読む その3 [人生論を読む]

先に述べた人間の根本規定のうち、人のあり方が他の二つよりも重きをなしている点を著者は第一章において繰り返し述べている。

「富の獲得に努力するよりも、健康の維持と能力の陶冶(とうや)とを目標に努力した方が賢明だ」としているのである。

ただ、これに続けて、「必要で適当な生活の資を得ることを怠るべきだなどと誤解してはならない」とし、生活に必要最低限の金を稼ぐ努力を怠ってまで、健康維持や能力向上を目指すことは誤りだとしているのだ。

有り余る富はわれわれの幸福にはほとんど何の寄与するとこともなく、金持ちに不幸な思いをしている人が多いのはそのためだという。

不幸の原因は、本当の精神的な教養もなく、したがって精神的な仕事をし得る基礎となるような何らかの客観的な興味を持ち合わせていないことにあるとしている。

本書で著者は「最高級の享楽=精神的享楽」と定義し、上記の者は富はあれども、この領域に達することができず、富がある故に生まれる暇を刹那的な快楽、享楽に向かわせるのだという。

「内面の空虚、意識の希薄、精神の貧困が、彼らを駆って社交界に走らせるが、この社交界がまた、彼らと同様の人間の集まりだ。類は友を呼ぶとしたものだ。」と社交界を不幸者の集団と一刀両断しているのである。

なるほど、昨今のネット上のコミュニティと呼ばれているものは、全てとは言わないが、上記のような性格を有しているものと考えることもできよう。

本来コミュニティは本来地域社会などを指す「共同体」を意味して使われてきたが、現在では、ネット上で空間的な制限を超えた「共同体」を構成しているものにも適用されている。

リアルな共同体では、異質なものをある程度受け入れ、一つの集団を形成することで、まとまりと多様化を持つが、ネット上では、多様化を求めない同一の集団によるコミュニティが形成されやすいし、それを目的としているものがほとんどであろう。

さて、著者は厭世家として有名であることは、このシリーズの冒頭でも述べたが、ありていにいえば、バカの集まりは不幸な集団というようなことを述べているのだ。

上から目線も甚だしいともとれるが、今属しているその交わりは、本当に自分を幸せにしているものかどうか、一考の余地はあろう。そして、今の自分の空虚を埋めるために、同様の人間と交流することで一時しのぎをしてはいないか振り返ってみるもの良いかもしれない。

第一章については、最後になるが、本書では、幸福に人生を送りたければ「健康」であることが前提となっている。「健康」ではないことから幸福になれないかどうかについては、本書の述べようとするところと方向が違ってしまうので、よくよく誤解のないようにいただきたい。

その点については、後日仏教観というテーマで述べたいと思う。

余談ではあるが、著者は哲学的な立場を無視しても本書を書いてはいるが、哲学者の随筆であることは違いない。また、人生は最悪の世界だともいっており、そこから芸術静観、仏教的涅槃によるべきとしているのである。

仏教は本来哲学であり、死後の世界云々ではなく、どうやって生きれば人は苦痛から解放されるかを説いたものである。それこそ涅槃寂静の境地なのだ。 


幸福について 人生論 ショーペンハウアー著 を読む その2 [人生論を読む]

本書は、先の緒言から始まり、全六章から成っている。

木を見て森を見ずではないが、小説ではなので、全体像を掴むことから始めたいが、大前提として、本書が、厭世哲学者と言われる筆者のものであるという点を確認しておきたい。
また、本書は随筆「処世術箴言(しんげん)」の全訳であるということも同時に押さえておきたい。

さて、全体の構成はといえば、
 
第一章:人間の3つの根本規定
第二章:人のあり方について
第三章:人の有するものについて
第四章:人の与える印象について
第五章:訓話と金言
第六章:年齢の差異について
 
となっていて、第一章にて、幸福を求める人間の根本的な要素を3つ述べ、続く第二章から四章において、それぞれについて言及しているのである。第五章では、筆者の知るところの訓話、金言を整理し、最終章において、年齢の及ぼす影響について述べることで締めくくっている。
 
 
第一章

第一章において、著者は「無常の人間の運勢に現れた差別の基礎をなすものが、三つの根本規定に帰着させられる」としており、それらは、
 
1、人のあり方=人品、人柄、人物(健康、力、美、気質、道徳的性格、知性ならびにその完成を含む) 
2、人の有するもの=所有物
3、人の印象の与え方=名誉と位階、名声

であるとしている。
 
つまり、人間はみんな違う。それは、「無常の運勢」によって違いが生まれている。性格や、健康、財産、人に与える印象、これらは、生まれつき違えば、成長するにしたがって変わるものでもある。人間の運命は『無常』なのである。
 
その中でも、人生の幸福にとっては、三つの中では、一つ目の「あり方」すなわち「人柄」こそ文句なしに第一の用件であり、もっとも本質的に重要なものであるとしている。
 
これは、よく言われていることではあろうが、富よりも健康といってしまえば分かりやすいであろう。
 
そして、とにかく「頭を使え」「感性を磨け」ともいっており、「精神性を高めよ」といっている。
 
精神性を高めねばならない理由は?それは、「幸福を自分の内面以外の他の要素に頼るな」ということらしい。
 
例えば、金があれば幸福というならば、金が無くなればそれは不幸になる。
彼氏、彼女といるのが幸福ならば、いずれかが去れば、それは不幸になる。
若さや美しさを保つことが幸福ならば、いずれ老いることで不幸になる。
地位や名声を幸福とするなら、地位がなくなり、名声が落ちればそれで不幸になる。・・・ 
 
簡単に言えば、そのようなことのようである。
 
そして、決してなくならないもの(生きていること前提)は、自分自身の精神なのだ。
 
なるほど、確かに私たちは何かを求めることで、大切な自分を見失うことが多い。
さらには、見失っている自分にすら気が付かないこともある。
 
それらを求めることで、果たして何が手元に残っているのか?そういったことを考えられる力、すなわち「知性」を身に付ける必要を繰り返し述べているのである。
 
つづく 
 
 
 
 


幸福について 人生論 ショーペンハウアー著 を読む その1 [人生論を読む]

その昔途中まで読みながら、人生経験の浅さゆえ、内容が理解できず挫折した、表題の書籍であるが、以前このblogでの紹介を機に再度読み直すことにした。

そこで、今回は熟読すべく、私なりの解釈も加えながら記事にしてみたいと思う。

緒言

緒言において、筆者は人生論を「できるだけ楽しく幸福に人生を過ごす技術」という意味で定義し、その技術の手引きを「幸福論」と名付けている。しかしながら、この「幸福論」は「普通一般の経験的な立場に終始」し、さらに、「完璧を期するものでもない」としており、その理由を、「一つには論題が説明しつくすこと出来ない性質」であり、」「また一つには、完璧を期そうとすれば、他の人の言い古したことを繰り返し述べなければならない」からだ、としている。

要するに人生を楽しく過ごすための指針である「幸福論」は、いつの時代でも同じようなことになってしまうし、説明しきれるほど単純なものでもない、ゆえに、ここでは著者なりの考えを述べようというものなのだ。 

これまで多くの賢人が同じようなことを言ってきているにも関わらず、愚者はいつの時代もその逆を行ってきていて、今後も変わらないだろうとも述べている。

なるほど、確かに誰もが人生を有意義なものとし、「幸福」になりたいと願ってはいるが、果たして真の意味での「幸福」とは何なのか、哲学者の考える「幸福」とは?逆に不幸な状態はどんな状態を指すのか、そんなことを考えさせる序章となっている。

ここまでの内容では、どうやら愚者=ばかものは、それをすると不幸になるということをわざわざやっている者のようだ。

贅沢、グルメ、酒、煙草、不倫、不貞、二股、ギャンブル、喧嘩、暴力、違法犯罪行為、妬み、嫉妬、怨恨・・・。いずれも一時的な満足感を得たり、他を貶めたりと、結果的に良い形になりそうなものがない。

私も前述の部類に全く属さないかといえば、そうでもない。つまり、ここまでの本書でいうところの愚者になってしまうようだ。

何故人は、こういったことに楽しみを見出したり、足を踏み入れたりするのか?そこには、多分に精神的な貧困さがあるようだ。一時の快楽を求めるあまり、手軽なことに手を染めてしまう。または、感情の趣くままに行動に走る。

「わかっちゃいるけど、やめられない。」バカであることは、不幸の始まりのようである。

うーん。すでに自分のことを指摘されているようで、困ってしまう。。

つづく 


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